福田眞人

この文脈の中で、たとえば[society]、[individual]、[liberty]、[nature]などの訳出に苦吟している様がありありと読み取れる。これらの語は、まさに新時代を告げる重要な用語だったのである。 たとえば[liberty]は「自由」、[society]は「社会」、[individual]は「個人」、[nature]は「自然」というように訳出され、じょじょに社会の中でその訳語が定着してくる。しかし、訳語が定着したからと言って、これらの語があらわす意味・概念が、そのまま理解されるようになったとは言えない。 概念が存在せず、それゆえにぴったりの訳語が存在しえない状態で、苦渋の選択は続くことになる。ある観念やそれに対する用語が今まで存在しなかったのは別に悪いことでもなんでもないが、ある外国語の単語に対応する、あるいは相当する単語が存在しないことは、文化的落差を意味する。人間の哲学や機微をつくような用語があれば、それに思い至らなかった文化は劣等な文化、あるいは漱石の言うところの「半開」の状態であることになる。「半開」とは、西欧諸国が「文化開明」しているのなら、日本は「野蛮」の国ではないにしても、なお「半開」なのであった。 明治翻訳語のおもしろさ(福田眞人)